HARADA RETSUDEN:

第四章 昇竜の躍進[原田烈伝]

キャリーバッグと自転車操業

新会社を設立した当初は会社に体力がなく、会社員時代の部下達を同時に全員雇う事ができなかったので、軌道に乗るに従って「そろそろ給料出せるから来い」と言って一人ずつ採用し、最後は元の部下全員を採用していった。

「日本の印刷会社を変えてやる」と裸一貫から始めた会社だが、世の中そんなに甘くなく、1000万円しか資本金がないので運転資金は早々に底をついた。営業をして売っても回収までには当然時間がかかる。どうすればよいかと考えていたころ、ビジネス評議会が主催するビジネスフロンティア活用資金のベンチャー認定が取れたため、銀行から融資を受けることができ当面の運転資金を得ることができた。

しかしそれでも毎月会社が潰れるのではないかと不安に思い、本当に怖かった。8月に設立して初めの3ヶ月間は自分の給料は取らなかった。しかも経営者の私はキャッシュを残しておかなけれあばと食うか食わずかの生活をしていた。社員にも1、2ヶ月経って運転資金が回るようになってから徐々に給料を払っていった。

今でも忘れられない出来事がある。社員全員に給料が支払えるようになったら私と幹部の4人で寿司を食べにいこうと決めており、とうとうそれが実現した。握り寿司だけで腹一杯にしたかったので「大将、いやってほど食べさせてくれ。」と4人ですごい勢いで寿司を食べた。そして、2、3次会にまでなった時に、酒が回ってせっかく食べた寿司を全部もどしてしまったのだ。他の3人に「寿司がもったいないやないか!」と叱られたが、とにかくうれしかったのを今でもはっきりと覚えている。

その後、全国に向けて営業活動を始めるが、無駄なお金は使えないので、行きだけ新幹線で青森、飛行機で鹿児島へ行き、帰りがけにアポイントをとりながら在来線で会社へ帰ってくるという節約営業を続けた。社員の顔を思い出すと契約が取れなかったら帰れないという想いで全国をまわっていた。例の会社案内パッケージを持ち、キャリーバッグ一つで走りまわった結果、トータル350社ほどの印刷会社とコンタクトをとることになった。

日本で3番目に導入したイープリント

キャリーバッグ営業の結果、全国的に契約先が増え、コンサルティング会社として成長し始めた。しかし一方で、何か実業を持たないといけないという思いも生まれていた。当時は「印刷機を持っていないやつが印刷会社の気持ちなんて分からないだろ、偉そうに言うな。」と言われることも多かったからだ。

そんな折、設立半年目でC銀行のベンチャー融資制度に唯一認定され、デジタル印刷を使用した新しい印刷市場のビジネスモデルを掲げると、地方新聞に大々的に取り上げられるというチャンスが巡ってきた。ベンチャー融資制度のお陰で、設立間もない会社が無担保で多額な資金を借りることができるようになったのである。

ちょうどそのころ、軍事技術を持つイスラエルのインディゴ社のイープリントというデジタル印刷機があれば、印刷の世界を変えることができると言われていた。そこで勢いオランダまで交渉に行き、設立1年目にもかかわらず6000万円もするデジタル印刷機を購入した。当時14坪7万円のオフィスから始めた会社だったのだが、機械だけで15坪 ほど、完全にエアコンをかけて温度を一定にしたバキューム式の施設が必要になったので、オフィスも急遽移転しなければならなくなった。このときもベンチャー融資制度のお陰で、地方都市で当時もっとも有名だったC銀行のビルに入りたいという思いも実現した。コンサルティング業は虚業だから、普通の路面店ではなく立派なビルに入りたいという憧れがあったのも正直なところである。

こうしてC銀行のビルの壁を壊し、ものすごい手間と費用をかけて階上に設置したイープリント。世界に数台しかないこの機械は、日本ではまだ業界関係者でもデジタル印刷機を見た事がない人が多かったため、全国の印刷会社の経営者が連日のようにを見に来てくれて話題となった。

相次ぐ事業創造

イープリントで脚光を浴びてから、本業ではデジタル印刷事業と印刷会社へのコンサルティング事業を営んでいたが、新しい事業も次々と手掛け、凄まじい展開だった。ただ、一貫して「印刷の新しい受注スタイルを創る」という信念は変わりなかった。

二番目に始めたのが「リーボ」というテレマーケティング事業。電話をかけてチラシの抽選番号を入れると自動的にルーレットが回り、プッシュボタンを押すとそのタイミングで景品が当たったり外れたりするという仕組みである。当選すると住所や名前を入れて引き換えに来てもらうという、顧客名簿を集めるテレマーケティング手法を開発した。元々その仕組みを持っている会社はあったのだが、こちらのアイデアを加えた仕組みにバージョンアップして販売した。この時は全国60数カ所の販売契約に成功した。

他にもブライダルショップもやった、インターネットカフェもやった。本業のデジタル印刷も起動に乗り、それらの新規事業に関する販促プロモーションツール開発に積極的に取り組んでいた。「名刺自慢」という名刺だけをパッケージで売るテンプレートを作ると、中でも「フォスター名刺」とう商品名で、開発途上国を支援するフォスタープラン(現公益財団法人プラン・ジャパン)と提携して売上の一部を寄付できる名刺は人気を集めた。ホームページ制作にも2002年に進出、情報誌を発行したり、CIコンサルティングを行ったり。

設立して5年も満たない間に新商品開発や新しい事業を次々と立ち上げた会社は、多数のナショナルクライアントとも取引できるようになっていった。さらに、印刷関連商社と共同で別会社を立ち上げると、ベンチャー系の印刷会社を集めて携帯電話会社と提携し、フリー画像を日本で初めて販売するというネットワークも形成した。とにかくいろんなことをやってきたの一言で、事業の数と並行して社員の数が増え、会社も大きくなった時期であった。

世界初のビジネスモデル

35歳の時、ビジネスホテルである事業の資本政策を書いていた。イープリントを利用したショップカード事業である。「リンクカード」という私の人生に転機をもたらしたその事業。

きっかけは、当時のイープリントの印刷精度が悪く、データアップにも時間がかかってしまったことから普通の印刷には不向きだったのだが、名刺サイズのショップカードなら、印刷面が小さく色ムラがわかりにくいということに気付いたことだった。そこで、2000円で200枚と価格を付けて飲食店や美容室へ販売をはじめると予想以上の売れ行きを見せた。

さらに単なる店舗情報以外にクーポンや割引券をつけて販売を拡大していくと、200枚のカードを印刷する際に、サイズ不揃いといった理由で納品できないカードが少しずつ溜まり始めた。それを使って始めたのがリンクカードビジネスである。手作りでカードを入れるボードを作り、それに納品できない余りのカードを入れてデパートのフードコートに設置すると、一日もしないうちに全て持ち帰られてしまう。当時はクーポンマガジンがない時代で、名刺サイズのクーポン付カードは金券感覚で手にしてもらえたのである。

カードの裏面にはアンケート&プレゼントキャンペーンの電話番号を印刷し、「リーボ」のテレマーケティングの仕組みを活用して顧客名簿を集めていった。間もなくインターネットを使ったマーケティングにいち早く注目し、カードの裏面にはURLを印刷し、サイトにアクセスしてもらうという仕組みに変化していった。

そのうち、お客はカードは持って帰るものの使わずにしまい込まれて店側は印刷代だけ嵩んでしまう、という問題が出はじめた頃に考えついたのが「空メール方式」である。カードに書かれたアドレスに携帯電話から空メールを送ってもらい、送り返されたURLにアクセスしてクーポンをダウンロード、それをお店で出してもらうと割引が受けられる仕組みがリンクカードの完成形である。

今では当たり前の空メールも当時は初めてのシステムで注目を浴び、全国紙にも取り上げられ、オンデマンド展開もスタートしたこの携帯ポータルサイト事業は次なるステージへ向かうこととなる。

ベンチャーのカリスマとの出会い

そんなある日、このショップカード事業の成長に注目した銀行からフランチャイズ専門の上場会社を紹介してくれるという声がかかった。コンサルティング先の会社からもこの事業をもっと大きくしたら良いという意見もあり、話を聞いてみることにした。

銀行から紹介された上場企業へ訪問が決定し、当時経営界で有名だった社長は30分だけアポイントをとってくれた。ベンチャーのカリスマだからとにかく忙しい人だった。京都のオフィスを訪ねたが、約束の時間になっても部屋から出てこない。隣の部屋で怒鳴っている声だけは聞こえてくるのである。約束の4時を回り、4時20分になっても出てこない。25分になってようやく部屋から出てきてくれた。

もう5分しかないと思って、持参したツールを見せながら慌ててプレゼンをした。その社長は「そんなに急がなくてもいいから」と言いながら話を聞いてくれ、途中から「おったでここに、俺の若い頃と同じ発想のヤツがおったわ。これはおもしろい。印刷の新たなビジネスモデル。おもろい男がおったやないか」と絶賛してくれ た。「いくら必要か?」と端的に言われ、たった10分の間に数億の融資が決定した。

あとは部下と話してくれと言われ、「じゃあ」と部屋を出て行かれた後、私はあっけにとられていた。京都駅までの帰りのタクシーの中で「さっきのは何だったんだ?」としばらく思考がまとまらなかったほどである。

早速翌日電話があり、事業モデルを公開してくれとその会社の社員が送り込まれて来た。私がたった一人で作り出したモデルは、2、3ヶ月もしないうちに予想以上のすごい事業フレームとなっていった。全国展開し、何百箇所で販売するといった内容に、既存の社員はビビったほどである。

そんなスタートからたった6ヶ月で、250社のフランチャイズ契約が実現した。当時はいわゆるITブームで、36歳の経営者のもとに、毎日加盟金だけでも1千万円単位で入金があったのだ。気づけばたった一年で、加盟金27億円の一大フランチャイズチェーンが出来上がったのである。

成長を止める落とし穴

加盟店からの収入が日に1億円入ってくるようになると、株式公開の勉強をしはじめた。本社も地方から東京の一等地に移転し、印刷とコンサルティング事業の会社経営が、まるでフランチャイズ本部経営者のようになっていった。今思えば、当時はフランチャイズ経営の素人だったので、大手企業が事業フレームを組んでくれたことに甘んじてしまい、自分自身が事業を組み立てていなかったことが残念でならない。

しかし、急速に規模を拡大をしたことで、加盟店へのスーパーバイジングの体制整備が追いついていおらず、契約がとれない加盟店からのクレームがどんどん膨れていった。加盟店の売上が上がらなければ当然本部は収益が悪化する。そうなると、資金繰りがショートしてしまい、公開前提の借入にも影響が出はじめた。 結局は融資をしてもらった上場企業をふたたび頼ることになり、子会社として支援をしてもらうこととなった。

ただ悪いことは続くもので、子会社となって再起をはかっていた矢先、その上場企業の経営状況が悪化し始め、外資系企業が支援に入った。すると借金を返すあての無い子会社は特別精算という形となってしまった。それまで暴れに暴れてきたベンチャー経営者はついに経営者ではなくなり、フォーシードという会社は水の泡と化してしまった。ただしそのまま対等合併となり、社員にはあまり影響を出すことがなかったのが不幸中の幸いであった。

私は合併した会社の副社長になった。38、39歳の時に2年間サラリーマン役員を務めたわけである。その間もカード印刷から各企業の印刷物に至るまで、ずっと印刷事業に関わっていた。
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