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STORY原田烈伝 
─脱サラからわずか数年で年商60億へ─

第二章 発想の光

堂々巡りの営業会議

新しく創出してもらった部署で努力するうちに、特進した私は幹部会議に出席できるようになった。
営業関係の幹部が30人ほど集まってくる定例会議で、予算調整に次のような会話が繰り広げられるのだった。

部長「おまえの課はなんぼ行く?」
課長「予算の80%です」
部長「残りはどうするの?」
課長「新規でなんとかやります。」
部長「じゃあ翌月がんばってくれ」

しかし、翌月になるとまた同じ事も堂々巡りが起こるのだ。

部長「どうするつもりだ?」
課長「新規をやります。」
部長「先月も新規やるって言ったじゃないか!」
課長「急ぎの仕事が入って・・・。」

来る月も来る月も同じやり取りが行われ、半年程したらバカじゃないか?と本当に思った。そもそも、忙しいのだったら増員が必要、急ぎの仕事が入るなら、工程管理を見直すべき。でも対策が全くできていない実態が放置され続けていた。これでいいはずはない。なんとか改善したい。方法を探すが見当たらず、私は毎日悩み続けた。

印刷会社の価値とは

会議で営業は新規獲得に行くと言いながら、実態は行っていない理由を毎日考えるようになると、次第に「この人たちは新規営業に行っても相手にされないから行きたくないのだ」ということがわかり始める。ということは営業の新規活動は一体どんなものなのか、そもそも印刷会社とはどんな立場なのだろうと思い始めた。

そんな私が当時の印刷会社の立場を実感したあるエピソードがある。A印刷に入った当初、S社という家具メーカーへの営業に同行訪問した時のことである。アポイントの時間になっても先方が全く出てこず、ずっと待たされたことがあった。そして遅れて出てきた相手方の社長は私に向かっていきなり、「そこのデカイ印刷屋、この荷物を運んでくれ!」と荒々しい口調で言ってきた。クリエイターとしてのプライドがあった私は、「なんでそんな仕事を頼まれないといけないのか!」と聞こえないふりをしていたら、「聞こえんのか!」とまた一喝された。腹を立てた私は、「ぼくは印刷屋ではない!」と言ったところ、同行していた営業の先輩から「アホかお前、謝れ!」と叱られたのである。

そんなやりとりに「こんなのやってられへん。」となったのだが、その時、なぜ印刷会社は「印刷屋」と呼ばれるのかと考えた。広告代理店は広告代理店屋とは言われ ないし、デザイン会社はデザイン屋と言われない。そこから印刷業界の社会的地位の低さを実感した。正直かなり低いと失望した。だから営業もぺこぺこ頭を下げて仕事をもらわないといけないのだった。

会議では行くと言いながら新規営業に出ない営業マンの意味がようやく分かった。結局、営業に行ってもお客さんに頭を押さえられながら仕事をもらうしかない。「なんか印刷ありませんか?」「そろそろなくなりませんか?」「うちにデザインさせてもらえませんか?」そんなスタイルだから新規がとれないのだ。本当に昔ながらの古い体質が抜けきっていないと確信した。

クリエイティブ革命

社長直轄で新設してもらった部署で私は企画を担当していたのだが、営業の数字が悪いからという事で半年後も堂々巡りの営業会議に同席していた。そのうち、印刷は全てが受注生産であるためこちらから売りに行く体制を作らないと問題は解決しないと感じ始めた。なにしろ受注生産は相手にニーズがない限り売れない。例えば飲み物を売っている店は、のどの渇きを訴求し、客に「のどが乾いていたんだ」と気づかせて初めて商品を売る事ができるのに、印刷会社はお客さまに「なにか印刷はないですか?」しか言わない。

そこで考えついたのが、印刷物に金額をつけて売るという手法である。仕事をもらう営業ではなく、「セールス」という方法がそれまでの印刷会社には存在しなかったからだ。27歳になった私は、セールスがない業界だからこそセールス部隊を造った印刷会社だけが現状を打破できると考えた。

最初に提案したのが、デザイン・画像・文章などの素材がパッケージ化された商品「会社案内シリーズ」。それを営業会議で提案した。

原田「毎月同じ事を言ってみなさんアホじゃないですか?」
部長「なんだって!?誰がアホだ!営業したことないくせに」
原田「半年同じ事をやっていて進歩がないのはどうなんですか?」
部長「何かやり方があるのか?」
原田「印刷には価格がないのでセールスができず、顧客のニーズを掘り起こすことができません。他の業界は商品が前提にあって商品を売るという概念に基づいてセールスを行っています。印刷でもセールス戦略を考えたらどうでしょう?」
部長「お前こそアホか!印刷は相手の腹を探りながら価格を決めるから儲かるんだ。」

せっかくの提案は一蹴された。まさにその反応そのものがナンセンスだと思ったが、営業連中からは総スカンをくらって「そんな物売れない」と言われ、「それならいいです」とその時はあっさり引き下がった。

そもそも、金額が定まらないと求められるクリオリティが判断できない。良いコピーやデザインは価値に応じて決定されるのに、価格設定がはっきりしない事でコピーやデザインの要求基準が不明瞭になってしまう。そういった状況下でディレクションを制作担当者に丸投げしてしまうため、結局は制作者の自己満足の作業につながってしまう。ひいては作業自体に価値がなくなってくる。

私は逆に定型の金額で売る中での良いデザインということになると、これが55万デザイン、100万デザインという設定になって、デザインやコピーに価値が生まれると思った。つまり、クリエイティブをイマジネーションという世界ではなく、ある一定のボーダーを決めたガイドラインの世界に当てはめて初めて、そこにクオリティが備わってくると考えたのだった。

日本初、印刷パッケージの誕生

提案が一蹴された後も営業会議で同じ会話が繰り返されるために、とうとう社長が「お前ら営業はダメだ。原田君、この前提案してきた内容をやるんやったらどんなやり方があるのか?」と意見を求めてこられた。そこで会社案内シリーズをつくった経緯を説明した。

アップルのアップル2というパソコンとクオークという組版のソフトを買って、これからは必ずDTPの時代がくると予感していたことや、広告代理店にいる当時から世の中の流れを探るために業界紙を読んでいたこと。その中で印刷営業はセールスという手法とデジタル処理のDTPが融合することで劇的に変わると確信を持ったことを話すと、社長は即決で商品開発とセールスにGoサインを出してくれた。

社長の後ろ楯を得た私は、改めて世の中の会社案内について調べてみようと思い、サンプルとして全国から200社ほどの会社案内を集めた。それらを全て調べていくうちに、「会社案内には3つのタイプしかない」という結論が見出された。一つは、事業が多角化している会社に多い事業別会社案内。次に、エンドユーザーに向けた商品にユニークさがあるところは商品別会社案内。最後に、製造工程を見せる事で技術を前提に提供する製造工程別会社案内。大きくこの3種類にしかないという結論に行き着いたのである。

さらに200社の会社案内を見ると、8ページで写真点数12点という割り付けが一番多いと言うことも分かった。そこで思いついたのがDTPを活用して文字と写真を入れればすぐに会社案内が出来上がるテンプレート開発である。当時はイラストレーターが輸入されたばかりで、まだ横文字しか描けなかったために制作スタッフのほとんどが「これは何百万もするオモチャだ、使い物にならない」と鼻で笑っていた。なにしろ10年以上キャリアがあるデザイナーが、ロットリングでコンマ1mmの線を右から左に引けるという技術を自慢する時代だったから。しかし、DTPを見た私は、クオークでドラッグ&ドロップするだけで新人でもそんな線はあっさりと引けると知り「この人たちの技術は終わった。今までのデザイナーという人にセンスは残っても作業は全部なくなる」と思ったものだ。

それを具体化したものが「パネオ」という商品で、A4の8ページ・写真12点で1000部制作して55万円という金額を決めて売り出した。DTPをもっと普及させようと開発したこの日本初のパッケージ商品。生まれ持ったマーケティング思考で、これはいける!と自らのアイデアに成功の確信を得た。

独学「セールス」マン

「パネオ」は、お客様にも好評で飛躍的に売れていった。ただ躍進の背景には、商品力だけでなく、まだセールスフォースオートメーションなどの概念を知らない時代に独学で生み出した科学的セールス手法があった。営業の現場を回りながら、この商品を実際に売るためのアポイント獲得トークから、ヒアリングシート、プレゼンシート、ボディコピー集を作り出していったのである。

まずお客様のところへ行く際には、印刷会社ではなく「コーディネート会社です」と自己紹介をする。そして、御社のことをお聞かせ下さい、事業内容は?強みは?何が一番打ち出したい商品ですか?と聞いていくのである。技術ですか?商品ですか?事業ですか?と整理しながら、「それでは御社はこのタイプの会社案内が合っていますね!」とコーディネート営業をする。

さらに会社案内のキャッチコピーデータベースを「コピーライブラリー」として持参し、お客様と一緒に会社に合うキーワードをチェックしながら、それをアレンジしていく。20年前にはコピーライブラリーなどを持ってきて、ロジックに基づいてプレゼンする印刷営業マンなどいなかったため、最後に「これで 1000部が55万円です」と言うと次々に契約が取れていった。

俺が作った商品が100万円!?

こうして印刷物のテンプレート集を作って営業する方法が成功しはじめたある時、そのチラシを見た経済新聞社が取材に来てくれた。その記事が紹介された瞬間、全国の印刷会社から問合せが殺到しはじめた。とにかくこの商品を売ってくれという電話に、いくらで売ろうかと戸惑っているとと「100万出しますから」と言われた。「俺が作った商品が100万円!?」と舞い上がった私はこれはいけると思い全国的に告知を出すと、あっという間に50社に売れた。5000万円のキャッシュが入ったのである。

しかし、商品が売れて3ヶ月ほどすると、全く受注がとれないというクレームが出はじめた。一件も契約がとれないという。すると、原田さんみたいな人が周囲に居て営業トレーニングしてくれるのなら売れるのだけれど・・・ということになり、29歳の私は全国の販売先に営業手法の説明にまわるようになった。それが、現在も続けている印刷業コンサルティングの原点となっている。

その後、A印刷のマーケティング部にサポートで入って来られた先生からコンサルタントという職業をする者の話し方やロジカルシンキング、細かいコンサルティングロジックを本格的に学んでいった。

そんなある日、A印刷の社長の子息と屋上でタバコを吸いながら、今後の印刷業界について語り合っていた。私は、印刷業の体系をつくって営業マンが頭を下げないでも良い業界にしたい。印刷業界に革命を起こしたいと自分の確固たる思いを打ち明けた。すると社長の子息は、「私が応援してやるから、どんどん思うようにやるといい」と言ってくれた。

この日から、マーケティング部はどんどんコンサルティング事業の色合いを強めていった。その後も印刷物に価格を決めて体系化をし、クリエイティブを科学し、誰もが一定のレベルのコピーが書けたり写真を入れて組版できる、という商品を世の中に出し続けた。これが印刷業支援人生のスタートとなった。印刷の大革命児と呼ばれた頃であった。

第一章 情熱の雌伏
第三章 夢への挑戦